蔵泉院は永禄3年(1560年)河宗源禅師(かそうげんぜんじ)によって創建されました。
ちなみにこの年は織田信長と今川義元の桶狭間の戦いがあった年です。
本尊様は虚空蔵菩薩で江戸末期の作といわれています。江戸時代徳川家より1石4斗の年貢をいただいていました。
寺宝は、横2間縦3間の大きな涅槃図(※)です。
江戸時代寛延4年松村安之丞孝邦の作とされています。観音堂の聖観世音菩薩像は江戸時代後期の作です。
正覚坊大権現は、境内を守る鎮守堂(※)ですが、いわれが残っています。
昔、延暦22年田村将軍利仁公が、再度東征の頃、この地方一帯は磐田の海袖ヶ浦といって
太平洋につながる大きな入り江でした。
古記によりますと、将軍が宝珠(潮乾珠)を投げられると水が一度になくなって陸地と化したと記されています。
その一部が残って大きな窪地になり、そこに1匹の「大亀」がすんでおりました。その体は、畳10枚位であったと申されます。
窪地のそこからは「こんこん」と、きれいな清水がわき出ていたといわれます。
数年後その「大亀」が死んだ後に、住民一同この海の守護主としてお祀りするようになりました。
それから正覚坊大権現は、戦前は海上安全、大漁、長寿等、願ってお参りする人が多くにぎわったそうです。
※涅槃図・・・お釈迦様が亡くなられた時の様子を描いた図、右脇腹を下にして臥しているお釈迦様をまん中に、
そのまわりをお母さんをはじめ多くの弟子たちや、信者の人たち、多くの神々そして多くの鳥獣や虫たちが、
お釈迦様の死を悲しんでいる様子を描いている
※鎮守堂・・・お寺全体を守っている神様を祀るお堂
臨済宗方広寺派です。
大本山方広寺は、1371年後醍醐天皇の11番目の皇子様である無文元選禅師が引佐町奥山の地に開かれました。
無文元選禅師は18歳の時、京都は建仁寺普光庵に入って剃髪、出家得度されます。
21歳の時には中国に渡り、7年間禅の修行を積み帰国されました。
その頃遠江の国には、豪族奥山次郎朝藤侯という者がおり、禅師に参謁し後醍醐天皇追薦のため、
また戦で多くの部下を失ったその菩提を弔うため、奥山の地に方広寺を建立し、禅師を招いたのでした。
禅師の元に集まる僧侶500人、参禅勉道に励み多くの禅匠を打出されたのち、
1390年3月22日68歳で方広寺にて示寂されました。
※臨済宗・・・臨済宗は、坐禅により仏陀の仏心に直参(じきさん)し、真実の自己を自覚することを第一とします。
住職:高井昭恭
昭和26年生まれ。
明治大学商学部卒業後、税理士資格取得。
昭和52年方広寺専門道場にて修行。
昭和58年父親の後をうけ、第15代蔵泉院住職となる。
モットーは「開かれた寺を目指して」。
お寺が、地域の中で文化の中心になるようにと思い、がんばってきました。
お寺は、人生を学ぶ場所であり、人生を楽しむ場所である。
喜びも悲しみも行き交う交差点がお寺でありたいと思っています。
お寺の本堂はいつも開いていますので、どなたでも自由にあがってお参りできます。
私も在宅の時は、よければお茶の1杯でも飲んでいっていただきたいと思います。
いろいろお話を聞かせてください。
中国唐の時代に、趙州禅師(じょうしゅうぜんじ)という名僧がおりまして、120歳の長寿で世をさりました。その趙州禅師と修行僧の問答に、喫茶去(きっさこ)という言葉があります。
師(趙州禅師)は、2人の僧にたずねた。「あんたは前にもここに来たことがおありか」
僧「来たことはありません」 師「喫茶去(お茶をどうぞ)」
またもう1人にたずねた。「前にここに来たことがおありか」
僧「来たことがあります」 師「喫茶去」
院主がたずねた。
「老師さま、前に来たことがない者に「お茶をどうぞ」とおっしゃるのはともかくとして、
前にも来たことがある者になぜ「お茶をどうぞ」とおっしゃるのですか」
師は、「院主さん」と呼んだ。 院主は返事をした。 師「喫茶去」